組合の概要

組合名称 本場奄美大島紬協同組合
創 立 明治34年9月 組合員数83
(令和3年4月1日現在)

組合の変遷

年月日 名称
自:明治34年9月26日
至:昭和12年1月19日
鹿児島県大島紬同業組合
自:昭和12年1月20日
至:昭和19年1月14日
本場大島紬絹織物工業組合
自:昭和19年1月15日
至:昭和21年5月31日
本場大島紬絹織物統制組合
自:昭和21年7月24日
至:昭和27年5月31日
保証責任本場大島紬生産信用販売購買利用組合
自:昭和21年7月24日
至:昭和27年5月31日
保証責任本場奄美大島紬信用販売購買利用組合
自:昭和29年6月23日
至:現在に至る
中小企業等協同組合法により本場奄美大島紬協同組合

組合の所在地

所在地 〒894-0068 鹿児島県奄美市名瀬浦上町48-1
電話番号 0997-52-3411
FAX番号 0997-53-8255
代表MAIL info@oshimatsumugi.or.jp

組合の歴史

紬同業組合の創立から大正末期まで

組合の創立

明治32年(1899)頃、大島紬は第一期黄金時代といわれる活況が到来し、群島の経済界を支配するようになった。ところが好況に酔うた業界では紬の粗 製濫造が続出した。一方名古屋等の他産地からは模造品が生産され始めたため、紬業界は一大脅威を受けた。粗製濫造による大島紬の声価は失墜し暴落を重ねる 悲惨な状況となり、順調に辿っていた業界は暗礁にのりあげた。この頃大阪で紬の販路拡張と品質改良に心血をそそいでいた松本弥一郎は同業組合の組織に着目 し、あらゆる犠牲を惜しまず積極的に活躍した。まず島司を説得せんと燃ゆるが如き情熱と抱負をいだいて帰省し直ちに福山島司を訪問した。そして過去における紬の興亡盛衰ならびに現況を説明してこの際是非とも同業組合を組織し厳重に製造方法を監視する。反面業者がこぞって模造品は勿論粗製濫造品を駆逐する必要がある。今のまま放置しておけば大変なことになる等涙ながらに島司に訴えたということである。

これより先名瀬の井江淳氏外一部の有志も弥一朗氏と同様の意見を持っていたので彼は島司に援助を求めると共に井江等の同志と相図り組織の草案をたてた。 これが明治34年(1901)4月のことであった。そして井江淳・山口清太郎・新納勇造・築小太郎・丸田兼義・松本弥一郎の各氏が創立委員となり同年9月総会を開いた。

総会では業者の統一・進歩発展・製品検査による粗製品の防止と品質の向上を図るを目的として厳重な検査を行うことを決定し、同35年から業務を開始した。ところが当時の組合規定は組合加入金拾銭・検査料五銭・不合格品は罰金壱円を課する・また甚だしく悪い製品は裁断するという厳しいものであった。そのため組合に加入する機業者や仲買人は皆無の上検査を受けずに逃げ廻って仕末におえない状態であった。そこで組合執行部は再三業者を集めて会合し、組合を組織した理由を説明して加入の勧誘に努力をした。このような状態であったので組合は事業の収入がなく支出が重なって困難な運営がつづいた。しかし役員たちはこれに屈せずあらゆる犠牲を拂いながら組織づくりと事業収入の方途に献身的な努力をつづけていた。

役員たちの努力にもかかわらず運営は相不変困難を極めたが、明治37年(1904)に日露戦争がぼっ発し、戦費調達のため同年4月非常時特別税法が公布され織物消費税が課税されることとなった。税務署の達示により税額査定は織物によって課税のちがいがでるので製品検査後にすることになっていた。

このため業者はいっせいに組合に加入し製品検査を受けるようになった。

以後組合の収入は増加し運営が円滑になったばかりでなく、厳重な製品検査の実施とともに品質も多いに改善されたので、大島紬は名実とも高級織物として天下に名声をうるようになった。

鹿児島県織物同業組合設立

大正5年(1916)4月30日、鹿児島県織物同業組合が設立された。明治7年に紬製法は大島本島から鹿児島に伝えられたとしているが笠利町中金久出身の永江伊栄温翁が明治21年(1888)鹿児島市樋ノ口町に紬工場を開設し、鹿児島における大島紬の基礎を築いたとされている。因に大正15年(1926)発行の鹿児島県織物同業組合十周年史誌の緒言の中には次のように述べている。「大島紬の本家は大島にして、鹿児島はその分家なるがゆえに其系統を同じくし、其血液をにせり、云々・・・・」と、鹿児島組合の立場も述べている。

昭和初期から終戦まで

鹿児島県工業試験場大島分場の設置

現在の大島紬技術指導センターは昭和2年(1927)4月1日鹿児島県工業試験場大島分場として設立されたものである。同4年(1929)11月1日大島郡染色指導所と改称された。

紬同業組合では大正13年頃から単独で指導員をおいて染・織の指導を行っていたが、理論的知識にかけていたため誤った泥染法が行われ、泥田を1~2回で終わるという早染式の未熟な染色であった。

この結果染料は糸に充分吸収されずうわべに糊付状態となり、黒色は鍋底のような色で糸は増量され摩擦に弱く染色不良の製品が多かった。

そこで染色担当の技手は厳格な製品検査と誤った染色法の指導を中止するよう紬同業組合(以下組合という)へ申し入れを行うとともに不良撚糸の移入使用を防止するため原料撚糸の県営検査施行を計画した。

当時組合には染色試験部が設置され職員1名を配置していたが、設備は極めて悪く、また大島支庁の技術員も行政上の指導ばかりで、試験研究に基づく指導が行われていなかった。

紬の品質低下は憂慮すべき状態となりこれが改善の為には本格的な試験研究機関の必要性が叫ばれ、業界の内外から工業試験場設置の要請がなされてようやく分場の設置が実現したのである。

分場とした理由は工業試験場設置は1県に1場という方針であったためだといわれている。しかし分場の内容は本場と同じ独立した機関であった。

大島紬製織工業の特別許可

昭和12年(1937)7月支那事変がぼっ発し、同16年(1941)12月わが国は同16年米国、英国に対して宣戦を布告して戦争へと突入した。

政府は戦争を遂行するため全国の高級織物の製造を禁止した。

しかし大島紬は住民の生活を維持する基本産業であること・伝統工芸品としての特技を保存すること等から地方長官許可織物として年間5貫匁(18.75Kg)以下の糸使用実績のある者に限り製造を継続することを許可された。

紬同業組合と工業組合

同業組合は重要物産同業組合法(明治33年3月6日法律第35号)により明治34年9 月26日設立。その後永年にわたり業界がなれ親しんで来たが、工業組合法(昭和6年4月1日法律第62号)の適用による絹織物工業組合に組織変更のため、 同業組合当局は大島紬織物界の将来を思い奨励すべきことであるとして賛意を表し昭和9年(1934)5月同業組合解散のため組合員3分の2以上の同意を得 て解散手続きをしようとした。だが業界有志の中から工業組合への改組は郡情に適せず、家内工業者の失業を見るものであり、業界の浮沈みにかかわることであ るとして、同10年(1935)3月16日「大島紬同業組合存続期成同盟会」を結成し、工業組合設立に対する猛烈な反対運動が展開された。双方とも紬を守 るための心情に起因するとはいえ、一時期(昭和9年~11年)業界は騒然とした。結局時代の進展に即応した本場大島紬絹織物工業組合が同12年 (1937)1月20日設立されることとなった。

戦時体制と組合

昭和12年7月7日廬溝橋事件が発端となり日華事変から太平洋戦争へと発展、国を挙げ て戦時体制へと推移、わが紬産地業界もいや応なく戦時体制に移行することとなった。戦火が激しくなるにつれ平和産業は制限され、軍需産業が優先、得に平和 産業である高級織物産地はその制限をもろに受けた。先ず昭和12年工業組合法の改正により組合に対する行政官庁の監督が行われ統制組合的制度へと推移し、 同15年(1940)7月7日公布のいわゆる七・七禁令「商工、農林省令第2号奢侈品等製造販売制限規則」により本土においては終戦後昭和20年 (1945)9月の統制解除、自由経済になるまでつづいた。特に本群島においては二・二宣言による行政分離により更に苦難の道を歩むこととなる。

七・七禁令により、ぜいたく品の製造と販売は禁止されることとなるので当時の本場絹織物工業組合理事長内田栄二(大島支庁長)は昭和15年8月20日「既製品の処理期間の猶予と製造技能保存法についての陳情」を行った。その結果特殊事情を訴える至誠が認められることとなり伝統的な生命産業として、地方長官許可織物となり残存零細業者の団体のみで製造が認められた。こうして戦時下国民の服装 として国の要求に答えるよう大衆向け医療として適応した製品つくりの指導がなされ一応の命脈は続けられることとなった。

七・七禁令につづいて昭和15年11月企業整備令(織物製造業者の統合に関する商工省 通牒)が発令された。戦争を続行するため政府では高級織物を強制的に統合整理から転廃業(昭和17年組合統合しない場合は10月から糸の割当停止昭和19 年8月残存業者に対する統廃業)させて、生産・販売・価格・金融の経済統制を実施した。また企業統合小組合編成が指導された。本産地においても機械および 撚糸機等の整備登録、生糸配給統制、奢侈品禁止製品規格の制定、価格統制、製品配給統制等が実施された。

国策に沿い小組合や統合会社を設立、それぞれの原料資材の配給を受けた。本群島において間もなく空襲に終われ敗戦の憂き目を見るまで不況のどん底にあった。先達の語りによると組織はしたが全く活動もしない団体もあったとのことである。

特に戦時体制下の出来事として、企業整備令により紬組合は技術保存会を設置して規格による販売価格、加工料の算定をするため公定価格査定委員会設置した。その規格では柄も統一され製品も限定されていた。当時の経済警察のきびしい監視の中で 技術上製品加工費の算定分別もない経済警察と専門家である委員の間で異論(委員は柄と商品価値に重点、警察は形式上のマルキでの算定のみを言い)があり、官憲の圧力により数人の委員が投獄されると云う事件もあった。逆境の中で当時の先達の方々の紬を守るための心意気が語りつがれている。

転廃業資金問題

政府は戦争遂行のため統合、転廃業を実施したが、年内生産消費量五貫目以下の業者のみを残存させ、五貫目以上消費する業者は資産評価をして転廃業資金を交付する約束のもとに強制転廃業命令991業者、886,148円(現在換算30億円余)を出したという。しかしこれは約束を果たさないまま終戦となり、奄美は二・二宣言による行政分離のため支給されず昭和28年日本復帰後再三国、県に対して請求してきたのだが認められず現在に至っている。

本場大島紬絹織物統制組合設立

昭和12年1月20日工業組合法により設立された本場大島紬絹織物工業組合も同17年企業整備令により統廃業、小組合組織に末端は改組されたが、更に国策に沿い同19年1月15日には「本場大島紬絹織物統制組合」に改組され終戦を迎えた。

分離期間より日本復帰まで

紬組合の改組

戦時中の戦時体制機構改革、企業整備のため統制されてきた本場大島紬は、終戦により復員、挺身隊、徴用者の帰還、外地在住者の引揚げ等による等による群島内余剰労力の活用、農家の生活安定策等を考える時大島紬産業の復活は急を要する問題として群民の要望が強くなった。この要望に応え紬業界では戦時中の統制組合、施設組合、加工会社、産元会社等戦時統制経済政策の結果余儀なく設立させられた組織を解散し、生産者自信の手により真に民主的組織に再建復活を図 るため強力な生産組合を組織することとなった。関係業者から準備委員を出して協議を重ねた結果同21年(1946)4月10日、時のポーター軍政官へ紬製 造許可申請を提出、5月4日大商第35号指令により許可された。この指令により製造許可された大島紬は昭和21年度6万反、同22年以降平均24万反を生産する計画であった。この生産予定の実現には民主的組合の設立、生産機構の民主化が必要であるため、昭和21年5月13日本場大島紬生産者組合設立準備委員会で再建組織の具体案を決定した。結局、共存共栄相互扶助の精神を基礎とする産業組合法に基づき、同21年6月2日設立人総会を開き、同年7月24日保証責任本場大島紬生産信用販売購買利用組合の設立を見ることとなった。

紬使節団の派遣

行政分離により紬業の将来に懸念を持つ人もあらわれ、大島支庁職員の中にさえ紬の将来を疑う発言をするものもいた。これまで紬業発展のため育成してきた業界は敗戦により惨状は目にあまるものがあり、斯業の復興を計らねば群民生活は救われない状態にあった。幸い、米軍進駐後まもなく食料衣料等の物資補給によってやっとおちつきを取り戻した町民の中には漸く我に帰り、焼け残った機業の設備を修理したり戦時中の織かけや準備原料の製品化に従事する者も現れた。一方紬組合は焼け残った地糸共同染工場の建物を改造して事務所にあて組合の名称も「本場大島紬生産販売購買利用組合」と改称して紬復興対策に努めるとともに製品検査事業を開始した。

また戦時中地方長官許可織物として生産を許可され零細業者の生産運営を円滑にするため設立された原料加工会社は、各加工工場の原料を整理し製品化に努めた。その結果昭和21年に3,083反、同22年2,590反、同23年6,670反と人心の落ち着きとともに生産は増加した。しかし原料資材の補給も得られず手持原料も次第に減少したため、同24年は1,070反、同25年は681反と減反を示し、原料資材の輸入が急務となった。

紬業の復興については行政分離以来官民一体となり毎年軍政府に陳情をつづけてきた。22年5月末には沖縄へ出張して軍政府副長官クレーギ大佐と会い紬業の復興について直接陳情を行った。しかし色々の資料提出の要求はあったがいっこうに道は開けなかった。このため原料資材の供給もなく残存糸により織り上げた紬は売るすべもなく、紬の生産販売ができないため、奄美の経済は目に見えて苦しくなった。

関係者一同苦慮して軍政府に対して窮状を訴える等根気強く接渉をかさね漸く紬組合代表の日本渡航が許可された。一行は25年2月渡日、6月末帰任し丸紅 商店へ紬販売を行いLC貿易取引による販売の道が開けた。また同年末には米軍のガリオアによる原料撚糸の供給も行われた。この撚糸は26年はじめ頃業者に 渡り使用されたが規格にあわず、業者は生産上設計その他不便の点が多かった。そこで同年5月業者を本土に派遣し、JLCの撚糸買い付けに参加させることに なった。2人は上京し沖縄軍政府東京駐在員であったフィンクス女史の助言を得、戦前の撚糸供給地名古屋から規格品質とも優れた練撚糸を購入することができ た。27年(1952)はじめ頃から撚糸も使用され紬復興の道が開かれた。

本場大島紬商標改訂について

二・二宣言により行政分離のやむなき非運をたどる本群島は本土との交通貿易も自由にならず、密航、密貿易と云う不自然な姿で本土の文化吸収をなす時代が 続いた。このような状態の中で昭和24年(1949)5月本土から帰省した一業者により、疎開した鹿児島在住の業者が紬生産を行い、戦前奄美の紬組合で使 用していた「本場大島紬」の商標(旗印商標明治38年農商務省特許局登録)と同一のものを使用していることがわかった。これは名称詐称であるとして臨時北 部南西諸島政庁を経由して軍政府に善処方を訴願した。(本場大島紬の戦前の商標は国旗印で米軍政下では日本国旗の使用を禁じられており国旗印の商標が使え ず、当時は暫定的に白紙に本場大島紬の文字のみを入れていた。)又、戦前奄美産は鹿児島大島の名称であった。このことについて軍政府からは裁判所に提訴す るようにとの指導もあった。生産組合役員会においては、同胞相争うことはさける方がよいとして結局商標及び織口文字を改定することになり、総会の決議に基 き昭和25年5月、商標織口文字は本場奄美大島紬と改めることになった。

保証責任本場奄美大島紬組合と改める

昭和27年度総会において、本場大島でなく本場奄美大島と名称に発祥の地奄美を位置づけるため、保証責任本場奄美大島紬信用販売購買利用組合と改めることを決定、同年6月1日改組した。

日本復帰にに対する要望書提出

昭和28年(1953)8月、ダレス声明により奄美群島は祖国日本へ復帰することが内定し、同年11月16日付で「奄美群島復帰に伴う法令の適用の暫定措置法等に関する法律(昭和28年法律第267号)が交付された。

紬生産組合では28年10月、奄美大島紬専門委員会を設置し「日本復帰に関する要望書」を作成して関係筋へ提出した。この要望書は戦前における大島紬の 状況、現在における大島紬の状況、組合の現況、将来における大島紬について、大島紬施設復興計画及要望書等に分類し15頁にまとめられたもので地元から代 表者が出張して県及び政府、国会等へ直接要望請願を行った。

日本復帰より現在まで

本場奄美大島紬協同組合設立

昭和28年12月25日の日本復帰により、当然組合設立の根拠法規も(昭和24年法律第181号)中小企業等協同組合法適用を受けることとなり、総会決議に基づき同29年(2954)6月23日、本場奄美大島紬協同組合と改組、現在に至る。

商標「地球印」に改め意匠登録完了

昭和25年(1950)には商標織口文字のみを改めたが、本土復帰を迎えることとなったので同29年に戦前の旗印に代わる商標を公募の結果、現在の地球印 を総会において決定、早速特許庁へ意匠登録を出願した。同30年(1955)1月24日付で登録第11288号で意匠登録原簿に登録されることとなった。 さらに本商標地球印と本場奄美大島紬の織口文字は昭和49年(1974)3月22日に連合商標(第510983・72498号)として登録され現在に至っている。

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